チベット文化、四川料理、ときどき旅。

中国四川省で暮らすアラフォーの日々。山々に囲まれた標高2600mの町、カンディン市。バーを営む中国人の夫とその仲間たち。息子と犬。辛い食べ物と大自然。たまに旅。日々の様子を綴っています。

この町の犬

 うちには今年9歳になる雄のシュナウザーがいる。

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 賢く気が優しいが、一匹のネズミを前に尻尾を巻いて後ずさるほど臆病で、名を『うさぎ』という。

 夫との馴れ初めの頃、この小さな町の一つ一つを犬と一緒に見て歩いた。山に広場、売店、土産物屋、食事処、カフェ。どこでも犬同伴で入店し、犬も当たり前のように席に飛び乗り、お座りをして寛いでいる。夫はリードを付けないどころか、持っていないと言う。犬は一時も離れず夫の後をついて回り、トイレの際はドアの前で待っている。夫は“いつも犬を連れた眼鏡の男”で知られていた。

 

 チベットと中国の文化が入り混じるこの町は、犬の楽園だ。動物と人が共に生活をするチベット文化と、ペットを家族とみなす中国文化の狭間にある。

 大小様々な犬種が飼い主を連れ通りを闊歩し、春になると野良犬が徒党を組み悠々と道を渡る。犬の方も持ちつ持たれつ、人と共存してやるか、と立場をわきまえたような態度で、特に何の問題も起こさない。

 そもそも、山手の方では家畜が野放しにされているので、リードや糞の始末に対して寛容で、川沿いの道は“犬の糞通り”と呼ばれ、ぼーっとしていると、ぐちゃっとやらかす。

 

 朝、幼稚園に息子を送るとそのままうさぎを連れ“犬の糞通り”を山の方へ向かって歩く。山へ続く長い階段のふもとが休憩所になっており、日光浴を楽しむ老人と犬の憩いの場になっている。

 いつも顔を合わせるコリーと尻に鼻をつけ合って挨拶を交わし、階段に挑む。途中までリズムよく登るが、ラストの急階段を前にふーッと肩で息をつき、天を仰ぐと向かいの山の頂が見渡せる。昨夜の雨がまだ山頂に霞を残し、冷気を帯びている。湿った植物の匂いを欲張って吸い込み、残りの階段に足をかける。

 登り切ると、頂上の方向とは逆に、町の方へ緩やかに下る。野良なのか飼い犬なのか、顔見知りの犬たちと連れ立って町まで降り、市場で食材を買って家へ戻る。

 

 毎年春になると増える野良犬の駆除に役所は頭を抱える。チベットでは動物の殺生はご法度で、捉えるのだが殺処分ができず、仕方なしに人里離れた山中に放す。あちらで捉えたのをこちらに、こちらで捉えたのをあちらに、あとは自然任せにそれぞれの運を祈る。

 しかしそれも結局形だけで、魚屋で売られている活きた魚を買い取り川へ放すラマを筆頭に、顔見知りの野良犬に餌を与え首輪をつけてやる人もいて、結局町にはいつも野良犬がいる。皆同じ動物なのだし、適当で良いのだ。

 

 数年前、うさぎが何日も帰ってこないことがあった。いつも自分で外に出かけ、遊び足りると帰って来て門を叩くうさぎだが、日を跨いで家を開けることはほとんどない。町の中では顔見知りばかりだが、外部の人間に車で連れ去られたのかもしれない。三日目には流石に心配でたまらず、SNSで拡散し、町中の人に尋ねて回った。

 広場を挟んで反対側の果物屋で見かけたと言う情報があった。願いを賭けて駆けつけた私の前に現れたのは、ガタイの良いゴールデンレトリーバー。その後ろに隠れるようにうさぎが座っている。主人にお礼とお詫びを述べ、“ほら、帰るよ。”うさぎに歩み寄ろうとする私を、ゴールデンレトリーバーは一歩も通さない。“両思いなのよ、青春ね。”と店の主人。

 体格の差というハンデを乗り越え、二人は恋に落ちた。“二人があまりにも嬉しそうでね。どこの子か分からなかったものだから。”家に帰りなさいと果物屋の主人が追い返すも、店の前に腰を据え真摯に思いを伝える相手の男。娘の彼氏として認めざるを得なかった。

 一緒に家に招き入れ、しばらく愛の行方を見守ろうと数日が経ったが、男の親の乱入で愛の逃避行は幕を閉じた。“ウチの子と一緒に知り合いの結婚式にも出たのよ。いい子だったわよ。”引き出物に肉の塊まで頂いたらしい。

 それからしばらくの間、駆け落ちをした犬としてハクがついたのか、町中の顔見知りから声をかけられていた。

犬は犬なりに、色々あるのよ。フンと鼻を鳴らし、今日も通りを闊歩する。

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テレビ

 近年、中国でもテレビを見る人は減るばかりだ。例に漏れず大人も子供もスマホに釘付けである。

 

 テレビで得られる情報は限られている。100以上あるチャンネル数の割に内容が薄いエンタメや、戦争モノの大河ドラマが繰り返し流れるばかりで需要もない。

 中国では各チャンネルで放送される項目がビシリと決まっている。CCTV1は総合チャンネル、2は経済と産業、4は国際、7は軍事。我が家でよく見るのは、5のスポーツ、9のドキュメンタリーと13のニュース。各チャンネルが新しい内容と再放送を順繰りに24時間放送している。

 5のスポーツは、世界大会で戦う中国選手の様子をメインに、サッカーなど人気の種目はヨーロッパの試合も随時流れる。13は国内外の最新ニュース、特に面白いのが9のドキュメンタリーで、野生動物や海洋生物の生態、中国各地方の美食、建築、歴史など多岐にわたるドキュメンタリーが見放題だ。

 

 『舌尖上的中国(舌で味わう中国)』という番組は見応えがある。国内に数百と散らばるローカルグルメを文化と共に紹介する10年続く長寿番組だ。

 石釜と薪を使い伝統的手法で焼く北京ダック。皇帝に出されていた料理はもはや芸術だ。よくあるオーブンで焼いた北京ダックとは別格である。滴る脂に唾を飲む。

 貴州の静かな農村、村人総出で収穫した唐辛子を惜しみなくザクザクと刻み、薬味と和えてタレを作る。肉や野菜をくぐらせて炊き立ての白飯に乗せ、頬張る口元にアングルが寄る。思わず自分も口が開く。

 テレビの中の美味しい中国を見ながら、“次の大型休みはアレを食べにドコへ行こうか。”夫と一緒に想像を膨らませ、もう旅に出たつもりで我が家の質素な飯をかきこむ。

 

 テレビ番組とは別に、通信会社がテレビを通して動画配信サービスも提供していて、映画やアニメも有料無料と盛り沢山である。

 日本にいた頃は、年に数本見るか見ないかであったが、こちらに来て映画を見るようになった。その理由が“無料”である。

 中国では新旧ほぼ全ての映画やドラマを無料で鑑賞できる。いわゆる違法アップロードが野放し状態なのだ。いや、訂正する。消しても消しても、アリが湧くように再アップロードされ、取り締まる術がない。まさか無理だろう、と最新の海外ドラマを検索すると必ずヒットするし、名前も知らぬ日本のアニメの感想を聞かれるのは日常茶飯事だ。

 

 中国人の映画好きはフランス人以上ではないか、とどちらにも偏見がある持論を方方で口にしている。

 政治への思想と言論が規制されている分、人の欲望は娯楽の方向へまっしぐら。美味いものを食べ、面白い映画を観て、今日も大満足で床に入る。自由だ独立だと大声で主張するのが無粋に思えてくる。

 プロパガンダ大成功ではないか、とご指摘をいただくかもしれないが、世界のパトロンである中国人が娯楽を貪るというのは、地球の未来にとって明るいのではないか、とまた酔狂な持論をここにも書かせていただく。

高原への入り口

塔公という小さな町がある

私たちが住む康定から西、山の方へ100キロ弱、バスか乗り合いのバンで走った先にある

中国側からチベットラサへと続く318号線近郊の町である

塔公はその町自体の標高が高く3800メートル

山を歩けば狼の足跡に遭遇する

高地草原の中に寺院と学院が根を張り、遊牧民と共に町がある。ほんの20年前までは、人々はヤクの毛で編んだゲルに暮らしていたが、インフラ整備と共に家が建ち、町になり、高速道路の開通で交通の不便が消え、近年は観光に訪れる人が急増した

たいていの他所者は気候や酸素の薄さに適応出来ないので移住者は入って来ず、ピュアなチベット文化が昔から続いている 

 

塔公に住む友達がいる

ジョウマというチベット女性で、あだ名はココ

夫のマックスはチェコプラハ出身である

夫妻は自宅を兼ねてユースホステル&カフェを経営している

2人とも英語が堪能で人の面倒見が良く、ヨーロッパからの旅行客が必ず立ち寄るスポットになっている

私とココとの出会いはもちろんマンバンだが、彼らの一人息子チャーリーとリテが同じ年に生まれたので、家族ぐるみで仲が良い

ココから   8月に馬乗り祭を見に来ないか  と誘われ、リテと2人で1週間ほど訪ねることにした

腕に自信のある男たちが馬乗りを披露する祭である。各地域で毎年夏に行われる

念願の初見である

 

康定から塔公までは車で数時間だ

七人乗りのバンが埋まるまで同乗者を待って出発する

街を後にするとほどなく山道に入り、上へ上へとカーブをきって登り始める

4200メートルの折多山である

頂上付近は祈りの場所として祀られていて、高く積み上げられた石にチベット語で絵が描かれている

石を積み上げるのは彼らの祈りで、大小さまざまな石のピラミッドを道すがら数多と目にする

頂上

ひときわ大きな石の塔に巻きつけられたシンボルの旗が強い風になびく

ドライバーが車窓から、経が描かれた小さな紙切れの束を風に乗せて飛ばす。祈りの束は巻き飛ばされて花吹雪になる

高原への入り口である

 

傾斜が急な登りとは変わり、緩やかに下っていく

視界に入るのは空と、草原の緑

どこから流れ下ってくるのだろう、山々を割って川が続く

川沿いに点在する集落をヤクに当たらないよう気を使いながら車を走らせる

土産物屋に民宿、飲食店、崖の上にぽつんと立つ民家

康定から塔公までの道すがら、信号はひとつも無い

川べりで草を食む馬の親子が見える

あまりにも自然に裸の馬が暮らしているので、野生かと尋ねると人が飼っているという

ヤクもそうである。囲いがあるでもなく、人や犬が誘導しているわけでもない。鈴が付いているヤクもいるが、そもそも聞こえる範囲に人がいない

日が暮れたら自分で家に帰るのだろうか

似た様な景色がひたすら続くが眺めていて飽きることがない

 

中国に来て初めての旅がチベット自治区方面だった。その時に生活環境の厳しさを知ったのが、寒さと水の乏しさである。水道はチョロチョロとしか出ないし、冬の間凍結すれば汲み置きの水を使う。シャワーなど余程の時しかしないし、そもそも寒いので着替えたくもない。寝るときに上着を脱いで床に入り、起きたら羽織る。顔を水ですすぎ歯を磨く。汚れても汚れたままにしている

今は8月だが、天気が崩れると一気に冷えるのでダウンジャケットを持ってきている。しかし日中太陽が出るとオーブンで焼かれるように熱い

日焼けが命とりになるので長袖に帽子がいる

3歳になるチャーリーはいつ会っても服や顔を大胆に汚している

 

 

宿の名前を  kanpa cafe カンパカフェ  という

土産物屋の脇の、鉄に木の板を敷いた小さな階段を登った2階にある

客室のある2階から、小さな頃に這って登ったことがあるような踏み板の狭い急階段を登ると、3階がキッチンとカフェになっている。欧州とチベットの軽食が食べられる。パン、面、餃子の皮、ジャムにバター、全て自家製である

ココが焼くパンが美味しい。シンプルな柔らかい白パンで、素朴な手づくりの甘さがある。汁に浸して食べると小麦に戻るように溶ける。日本の小麦粉を使ってるのよ、と嬉しそうに彼女は言う

マックスは特別変わった人である

高地でヘビースモーカーを数年続けたので、コホコホといつも咳をしている。最近タバコを吸うのを辞めたが、替りに直接口に入れるタイプのニコチンを噛み目眩を起こしたりしている

ビールは彼の文化で、自分でビール醸造所を作り、新しいビールを開発しては自分で飲んでいて、飲みきれない分を余所に売っている

気が向いた時には、輸入の酒でカクテルを作り  一杯どうぞ  と渡してくれたりする

 

  

ココの生まれはダンバという谷沿いの小さな街の、山の上の集落である

両親とは小さな頃に別れ、親戚の家で家畜の餌を作りながら育った。朝は暗いうちに起き、仕事をしてから下界にある学校まで山の上から歩いて行き来した。タフな幼少期を過ごした人だが、野花が好きな明るい性格である

 

喧嘩の多いこの夫婦を困らせているのが息子のチャーリーだ。宿では イッシ とチベット語で呼ばれている。愛くるしい見た目とは裏腹に意思が強く、誰より小さいが、誰にも負けない

リテは大敵で、喧嘩の度にどちらかが大泣きをする

3歳に満たない子が、フォークを掲げ睨みで相手を黙らせる光景はあっぱれである。黙らされたのはもちろんリテだ。住み込み手伝いのアポ(おばあちゃん)をリテが叩いたので喧嘩になった

チャーリーは周りの皆を守ろうとする

夏の間、ココの従姉妹が故郷のダンバから、幼な子たちを連れて、住み込みで宿を手伝っている

客は、走り回る子供達を交わしながら席に着き、片付けなさい  としかる母の怒号をBGMにコーヒーを飲む

他に術がなく謙虚にしている客たちも、質の良いサービスなどとうに諦めてリラックスしている

 

 

さて、馬乗り祭である

宿から車で10キロ、デコボコ道を車で走る 。来場客で道が混雑し出すと、ギアを小刻みに入れ替え急な坂を登っていく

ひときわ小高い丘へ登りきると、見渡す限りに草原が広がっている

草原の中に大きな寺院が立っている。お坊さんたちの学舎、修道院である

その修道院を背に会場がある。会場といっても、どこまでも草原が続くだけなので、人が居る場所までが会場である

遊牧民のゲルがいくつも並ぶ。小売りや催し物、祈祷用の仏像が祀られたゲルもある

 

騎士たちが現れると歓声が上がる

ィエッヒヒー   ィエッヒヒー   ィエッヒヒー

 

レース場はロープで区切られていて、ぐるりと周りを観客が囲んでいる

今日は騎馬レース、明日明後日が騎手たちのパフォーマンスらしい

まだ10代の若者だろうか。幼い顔だちの少年が重心を前に馬と駆ける

民族衣装で着飾った康巴汉子と呼ばれる戦士たちがいきった馬をいさめる

もっとよく見ようと、人並びの後ろから背伸びするが、もうすでに息子が遠くへ駆け出しているので諦めた

リテは高山病か、朝から二度食べた物をもどしている。確かに、少し駆け出すとすぐに息が上がる。階段を上がるだけで、短距離を走った後のように疲れてしまう。たまに耳の奥がパーンと鳴ることもある。気圧の変化は自覚する以上に身体に負担をかけている

 

あいにくの天気で雨が降り出すと、冷える

耐えられず近くのゲルへ入ると、中は空気が篭って暖かい

広めのリビングほどの空間に10人ほど。図書ゲルである。本棚に囲まれてラグが敷かれ、膝の高さに長机が三列並んでいる

中国語と英語の本が置かれている

ゲルの主は若い修道士。マックスの知り合いだ

 

チベット仏教徒の特性として個人的に感じることがある

救いや赦しを乞い祈る というよりも

自己との対話、生涯を通しての学び

それが彼らの生活に浸透している

来世を信じ、今世に徳を積む生き方をするという信仰心が強い一面と共に

自ら本を読み、学ぶことに対して素直である

新しい技術や情報を取り入れることにも偏見がない

チベット語、中国語、英語の三ヶ国語を話せる若い人がたくさんいて頼もしい

図書館テントの主もそうだが、多くの修道士は物静かな勉強家の雰囲気を纏っている

 

リテが眠ってしまったので、わたしもゴロンと横たわる。草地に直接絨毯を敷いただけだが、柔らかく暖かい

天井は十分な高さがあり、黒いヤクの毛で編んである。ゲルの支柱を縛るロープは細く裂いた革で編んであり、年期が入っている

草の匂いが雨の湿度で増し、子供の頃を思い出して背中に土を感じているうちに眠ってしまった

目を覚ますと雨が止んでいた

騎馬レースもお開きとなり、観客が四方八方に散っていく

自分たちもまたバンに乗って宿へ戻る

舗装してないデコボコ道を車ごとポンポン跳ねながら走る。まるで馬に跨っているようで嬉しく、跳ねる瞬間に イェッヒヒー と声を上げてみる

古いオートバイに跨った2人乗りのチベタンライダーたちが、右へ左へ細かくハンドルを切りながら凹凸を越え追い抜いてゆく

馬も、バイクも、ここでは同じ乗り物だ

 

 

宿は寺院がある広場に面していて、3階のテラスから、寺院とそのすぐ背後に山が見える

標高が高いこの辺りの山には樹が生えず、山といっても、一見小高い丘と変わらない

何処までも草原が広がる景色の中では遠近がつかめず、遠いのか近いのか、丘なのか山なのか一見わからない

いくつかの山の上部にチベット語のカリグラフィが白色で大きく描かれて、その周りを色とりどりの旗が正三角形に縁取っている

初めて訪れた時は、漠とした山々を彩るように描かれた祈りのアートに来訪を歓迎されているようで嬉しく、何枚も写真を撮った

塔公に着くまでの手前に、幾千もの石で埋め尽くされた川沿いの細い道を通る。岩ほど大きいものから小石まで、両側の山が崩れた所に川が流れ、石の谷のようになっている

その何百という石のひとつひとつにチベット語の祈りや仏様が描かれていて、一帯が壮大なアートになっている。文字は白で、仏様は原色の赤や青が使ってある

突如現る異世界に放り込まれたような、神秘的な場所である

今回訪れた時、そのどちらもが消えていた

町のシンボルであった山の絵は黒いペンキで塗られ、山は恥部を晒したような顔でそこに在る

政治の事情で消された芸術

町の人達の心中を想い、悲しさが込み上げる

剣が筆より強いのもまた現実である

 

宿のテラスから寺院の前の広場を見下ろすと、夕闇の中、青年が馬から降り愛馬に水を飲ませている

威勢良く駆けるチベタン達の姿を思い出す

イェッヒヒー  

大勢の観客の雄叫びが残っている

勇敢な男たちが、小雨の降る会場を熱気に変えていた

普段は無口で素朴な彼らの戦闘的な一面を垣間見たようであった

 

 

毎日の夕方、子供4人を連れ散歩に出る

宿から出て裏の細道を川まで歩く

鉄棒で作られた細い橋を渡って川原に降りると、後ろの方で馬が草を食んでいる

子供らは、水温が低く氷水のような川に靴や手を浸け、棒切れで橋を作ったり花を摘んだり、泥んこになって遊ぶ

出かけに 靴を濡らさないで  と母から注意されたが、思い出す頃には制御不能である

白い花の高山植物を長女のラムと摘んでいると、エーデルワイスだとマックスが教えてくれる

草原、馬、エーデルワイス、遠くに見える高い雪山

漫画の中のスイスようなロマンティックな場に居るわけだが、身体の不調でそれどころではい。私もリテもお腹をひどく壊している

 

また別の日は丘に登る

頂上はすぐそこなのに、ハァハァと息が上がりやっとの思いで登る。子供らは山羊のような機敏さで駆けあがり、早くおいで と叫んでいる

上に着くと塔公の町が見渡せる

丘の一番高い所に立ち、清々しさを胸いっぱいに吸い込む

ラムが経の書かれた紙切れを拾い集めて風に巻く

ピンクと白の桜を思い出す

 

草の上を転がって遊ぶ子らを呼び集めて帰路へ着く

宿に着くと、キッチンでは最も忙しい夕食時が過ぎ、やっとこれから自分たちの食事である

子たちは客の残りをつまみ食いしながらご飯を待っている

体が暖まるヤクのミルクティーとあり合わせの炒め物、パンとご飯

食事が済むと子供も一緒に片付けと掃除をし、各自就寝にむかう

明日は晴れると靴が乾くな、などぼんやり考えているうちに眠りに落ちる

冬場は雪山に囲われてしまうので訪れる人は無く、短く賑やかな夏の思い出である

起きる、食べる、歩く、寝る、簡素な生活の中に全てがある

 

 

半日置きに入れ替わりしていた天気がようやく落ち着き、晴れ

1週間の夏休みが終わろうとしている

訪れる観光客をうまく避け、家へ帰るにはどうしたら良いものか、県外ナンバー車の波を見ながら考える。明日か、明後日か、早朝に出れば渋滞はマシだろうか

リテはこの1週間でずいぶん逞しくなった。お互いに指と爪の間が黒くなり靴は泥をかぶっている。早く快適な生活に帰りたい、もう少しこのまま山暮らしをしていたい、2つの気持ちが同居している

 

予定の日を一日繰り下げて、フランス人のバックパッカーたちと康定行きのバンに乗り込む

ちいさなバケツになみなみと入ったヤクの乳のヨーグルトをお土産にしている

車はゆっくりと走り出す。ドライバーは機嫌よくステレオに合わせて鼻歌を歌っている

 

車内から外を眺めていて  あ  と思わず声がでた

山腹の絵を塗った黒い塗料が雨水で洗われ、元の白がくっきりと出てきている

後2、3度激しい雨が降れば、綺麗に剝げ流れてしまいそうだ

付け焼き刃のアイデアでは敵わないよ  と山が誇らし気に笑っていた

 

 

 

西端の街へ

  新疆ウイグル自治区に来ている。中国を縦に三等分し、その一番西側を上下に分けたら上側がウイグル下側がチベットである。中国は多数の少数民族自治区を包括しているが、その中でもウイグルは土地面積が最も広く、タクラマカン砂漠タリム盆地を内に抱え、外は四方を山脈で囲まれた中央アジア大自然の中に位置する。民族はウイグル族を中心に47民族が暮らしている。ウイグル地区の西側はカザフスタンキルギススタン、タジキスタンなど8カ国と接しており、西側に寄るに連れて東アジアから中央アジアへと魅惑のコントラストを成していく。人は皆、彫りの深い目鼻立ちに色素の薄い髪や目をし、言葉はと言えば、中国語を流暢に話す人は移住した漢族を除けば少なく、ウイグル文字を使った民族語が主流である。平たく言えば、“中国人が多い中央アジア”ということになる。

  午後8時、大地をカラカラに乾かす勢いで照っていた太陽がようやく傾き、夕暮れ。ウイグル地区西端の街カシュガルは夕暮れ時が美しい。旧市街の土壁がオレンジに染まっている。日中ジリジリと焼かれ続け火照った街ごとが日陰に入り、涼しい風が吹き抜ける。忍耐強く待った甲斐があったと言わんばかりに子供も大人も外に出て、街が夜に沈むまでのいっとき、夕涼みを楽しむ。砂漠にオアシスのようなひと時である。哀しいかな、政治の事情で今は礼拝に使われていないモスクの前が大きな広場になっている。子供達が走り回り、カフェやアイスクリームの屋台が賑わう。大人は段差に腰を下ろしどこかホッとした様子でそれらを眺めている。広場のすぐ側の簡素なユースホステルに泊まっているが、下が食堂になっていて、朝から夜半まで表で串刺しの羊肉を焼いている。熱さにやられている時はトマト風味のシンプルなスープメンが良いが、煙に乗って充満する脂の焦げる匂いがあまりに強烈で、ケバブを注文せずに店を出ることはもはや困難である。食堂は地元の客でいっぱいである。メニューは無く、細切れにした肉と野菜を炒めたものをタレごと白米かメンにかけたもの、ナン、串焼肉だけ。家族経営の食堂である。大きな陶器釜の内側面に直接生地を張り付けて焼くナンは人々の主食でもおやつでもあり、そこら中で売っている。まるっとガタイの良いおじさんが焼き上がったばかりのナンを熱い釜から器用に鉄棒で刮ぎ取り出していく。薄い塩味でザックリモチっと香ばしく、ゴマとスパイスがほんのり香る。四川料理の唐辛子の刺激からいっとき離れ、素材を活かした中東の味をぞんぶんに楽しむことが今回の旅の目的でもある。

  カシュガルの中心部はモスクと広場を中心に住宅や商店が円形状に広がり、その辺りは車両が入れないようになっている。赤茶色の土壁の家が入り組んだ小道を作り、その街並みをカメラに収めようと多くの観光客が訪れる。年配者は道沿いに椅子を出して、子供達があちらこちらで自由に遊んでいるのを日がな一日眺めたりしている。走り回る子供に付き添いの大人は見当たらず、歩き始めたばかりの乳児から小学低学年ぐらいのウイグル族の子供が数人のグループでカンフーをしたりメンコやボールで遊び走り回る。二歳ほどの子が夜11時を過ぎても大人を離れて道端で遊んでいるさまは異様に思えるが、それほど“安全”なのである。夜半まだベッドにつく気になれず外へ散歩に出ると、4歳の男の子がやってきて、一緒にアイスクリームを食べようと言う。近くに住んでいるのだが、毎晩一人で道端に出て辺りをふらつき、母親が遅いから帰って寝なさいと追いかけるが言うことを聞かず、母親も諦めて好きにさせている。近所の人に聞くとそんな子供ばかりだという。中国の漢族の地域では、一人っ子政策の名残か、祖父母が子供に常に付き添い一家の王子の如く過保護に育てるのが一般的なので対照的である。ちなみに当時の一人っ子政策については、少数民族地区に寄るほど緩和されていたようで、政策中にも兄弟姉妹がいる家庭が多い。チベット自治区においては2人まで出産可能、3人目からは出産納金義務が発生していた。

  中国政府とウイグル少数民族の一連の諍いから街は厳戒態勢であるにもかかわらず、街が”安全”とはどういうわけか。ウイグル地区で何が起きているのか。

  2009年、ウイグル地区で大きな暴動があった。独自文化の尊重を強く求めたウイグル人民と警察が衝突して騒乱になり、少なくとも数百人が亡くなり数千人が負傷した。中央政府ウイグル区間の問題は歴史が長い。その昔、モンゴル帝国が大きな勢力を持つ以前、この地区は独立した一つの国家であった。モンゴル帝国からの支配を経てやがて中国に統一される。しかし言葉や文化が180度異なる異民族を統治することは難しく、皇帝は多数の妻子の中から娘たちを各地区へ嫁にやり、また各地区の有力指導者の家族から中央へ嫁を娶り、他民族との血族関係を結び友好関係を築いた。カシュガルにある香妃墓には清の時代に北京へ入宮したウイグル族の香妃が埋葬されている。皇帝は多数の王妃の中でも香妃を寵愛し、宮廷内に彼女専用のモスクを建て、遥か遠くの彼女の故郷から食べ物を運ばせ、香妃が亡くなった後は遺体を三年かけて北京からカシュガルの家族の元へ運んだという。香妃の方からも、皇帝からの恩恵に感謝を述べ来世も貴方に嫁ぎます、という公式文書を残しており、時代を越えて中央とウイグルの友好関係を築く象徴として語られる。文化は長い時間をかけて少しづつ融合されてゆく。しかしまた、争いが絶えないどこの地域でもそうだが、中央に寄り添うもの、反するもの、二つに別れた枝は更に伸びて分け枝を作り、つまり反対勢力の内部でも信仰の枝別れから争いになり、時を超えてさらに複雑な縮図になる。ウイグル地区も例外ではない。この地区の問題を単純に中央政府の弾圧と考えるのは安易だ。しかし、現在街が厳戒体制である主な理由はやはり直近のテロが理由のようだ。ウルムチカシュガルを訪れたが、街のあらゆる場所に無数のカメラが設置され、警官が立ち、チェーン店のカフェに入る際も金属探知機のゲートをくぐり荷物を赤外線でチェックされる。夜市は禁止され、モスクは信仰のシンボルを取り外して祈祷に訪れる人は無く、地図のメモを手に道を探していると警察に呼び止められ、メモの内容をチェックされる。車で移動すると、他都市への入り口付近で厳しい身分検査があり、スマホの内容まで提示を求められる。中央アジアイスラム的情緒風情を感じるものは制御され、代わりに民族共存を歌う当局の赤い旗に書かれたスローガンが数メートル置きに掲げられている。建物はどれも現代風に新しく修理され続け、道に座り物乞いをする人もいない。民族弾圧という印象を受けるか、民をテロや暴動から守るための保安と取るかはそれぞれである。とにかくウイグルは現在国内で一番安全な地区であるようだ。スリや恫喝、犯罪の匂いもしない。街中に設置された防犯カメラと警察官のおかげである。意外な事に、彼ら警察官の90パーセントは目鼻立ちからしウイグル人である。人は信念だけでは食べていけない。生活するには仕事が必要だ。立場と報酬を与えられ、あるいは優遇され、同胞を規制する立場に就く。就職の機会や選択肢が少ない地方ではなおのことだ。魚心あれば水心、巧妙で有効なシステムである。

  文化大革命の後、多くの漢族の当局員が当時何もかもが未開発であった少数民族地区に派遣された。大規模な人事移動で、公共事業の整備を皮切りに街づくりや政府機関の設置が目的である。ところが当時の中国である。交通手段も無く徒歩で何百キロも歩き、電気も通らぬ秘境へ派遣された漢族はほぼ永住が前提であり、現代の日本のように数年で本店に戻り昇進というわけではない。ちょうど私の親の世代に当たるが、移住した多数の漢族が地民族と家庭を築いた。“文化融合”。それも中央政府の目的の一つであっただろうが、ここウイグルではチベットほど浸透しなかったのかもしれない。依然、漢族とウイグル族の間には文化差異や言葉の壁が存在する。イスラム教圏の人々は男女の異性交遊に関して閉鎖的な地域が多い。ウイグル族も昔は結婚後ですら男女の住居は別で、食事も家族の男性達と女性達で別にとっていたという。言葉も重要であるが、チベット語より中国語を話す人が多いチベット地区に比べ、ウイグルでは積極的な中国語教育は進まぬままである。現在の政策として、漢族とウイグル族の他民族同士の結婚は優遇され6万元(100万日本円)の補助金が支給される法律があるが、そのケースは依然多くないようだ。

  若者の文化はどうだろうか。カシュガルは西の端とはいえ比較的大きな都市である。大学もある。中国は投票権がないので、国政と若者(1990年以降の新世代)の思考は全く別物だと考えるのが正しいが、ウイグル地区ではどうだろう。カシュガルの街を数日間歩いたが、その世代にあたる若者をほとんど見かけなかった。また、街中に配備された警官は学校を卒業したてのまだ幼い顔立ちのウイグル族男女が多かった。察するに、政府関係の仕事に就くか、それ以外は選択肢が多い首都のウルムチに移ってしまうのだろう。というのも頷ける。首都のウルムチを除く地方都市には若者を惹きつける文化が皆無なのである。映画館やショッピングモールがあるわけでもなく、現代的なカフェやバーにレストランも無い。もちろん歓楽街も無い。あるのは観光客相手のバザールと、宗教的意味を失った街、大自然のみである。かつては老若男女多くの人で賑わっていたであろう夜市もバザールも節祭も、多くの人が集まる活動は保安の為に全て規制されている。これでは若者は希望を持てない。アイデンティティを失った街と言われても仕方がない。

  自転車をレンタルし、カシュガルの中心部から他都市へ続く国道沿いに点在する農村部を訪れる。シルクロードと呼ばれる314号線を200キロほど車で走ればパミール高原に入る。乾いた大地が続く中、道沿いにポプラの木が永遠と遠くまで並ぶ。風が吹くと縦に高く伸びた幹が揺れ、葉がザワザワシャララと独特な音を鳴らす。強い太陽を全身に浴びながら、イチニ、イチニと自転車のペダルを漕ぐ。顔に当たる風はカラリと乾いて少しの湿りもない。ロバが荷車を引いている。子供が木からこぼれ落ちた果実を拾っている。穏やかな午後である。数時間後には陽が落ち、暑さから逃れ安堵した人々が湧くように路上に出てくる。遥か昔より東から西西から東へと人が歩いて旅をした交易路。山脈を越え砂漠を渡り遠くの街へ物を運んだ。街は疲労した人や動物のオアシスであった。何千年も変わらぬ風景、何百年も変わらぬ人々、政治状況のみが目まぐるしく変化してきた。陽が落ちるころ、街の中心部に戻り、下の食堂で夕飯をとる。家常飯と呼ばれる炒めものをご飯にかけたのを注文し、“米は少なめで野菜をたくさん“とリクエストすると、笑顔で了解。と返してくれる。いつも通りケバブを二本。通りに出ると人が多くなり始めている。子供、お母さん、老人、おじさん、それぞれの自由で安堵な一日の後半が始まる。漢族の若者が経営する小さなカフェやバーが数件並ぶ通りまで散歩に出る。店を覗くと客は居ないが常連らしいウイグル人の子供が遊びに来ている。目が合うと前歯が抜けた大きな口を開けて笑った。ふと、ここが安全な場所であることを痛いほど嬉しく思った。

  旅中、香港で大規模なデモが行われている最中で、参加者と警察が衝突し、政府側がついに政策を曲げたというニュースを読んだ。もちろん外国のニュースである。事態は世界中でトップニュースになっているにもかかわらず、国内では一切の報道が無い。どころか、誰も知らない。ネットの話題にすら上っていないのはいささか異常である。デモ参加者は学生を含む若者層が主だという。斡旋、暴動の罪で捕まったデモ参加者はどうなるのだろう。2009年のウイグル暴動ではデモと暴動を計画したとされる組織の者が多数逮捕された。刑務所に服役していた私の知人によると、例の暴動で逮捕されたウイグルの囚人は見るも無残な処置に置かれていたという。“学習班”という言葉がある。学校を出てから無職でいるウイグル人の若者を任意で特定の場所に集め、国家団結、法律遵守など基礎道徳を学習するのだという。ただの噂話である。現在100万人のウイグル人が学習中だというのも都市伝説であろうし、事実を知る術はない。旅中、ウイグル人のドライバーに気になっていたことを訪ねた。はて、ラマダンはするのだろうか。イスラム教徒にとっては約一カ月を断食と祈りに捧げる重要な慣習であり、また家族が集まるイベントでもある。ラマダンはしないという。なぜかと尋ねると、“不好説.”とだけ口にしてやんわりと却下された。口々に意見を飛ばしているのは外側にいる者だけで、内側にいる者にとってはこれらのことは全て“不好説”なのである。

  自分が湿度の高い日本で育ったからだろうか。風がぴゅうと吹くような乾燥した場所が好きである。遊牧民の生活をいつかは体験するのが夢である。人もどこかカラリと男性的で惹かれる。人々は感情の渦も人生への情熱も胸の内にしまい、どこか冷めた表情をして、だが誇り高い。太陽に照らされるままに、風に吹かれるままに生きている。ザワザワシャララと鳴るポプラの音が耳に蘇る。