チベット文化、四川料理、ときどき旅。

中国四川省で暮らすアラフォーの日々。山々に囲まれた標高2600mの町、カンディン市。バーを営む中国人の夫とその仲間たち。息子と犬。辛い食べ物と大自然。たまに旅。日々の様子を綴っています。

西端の街へ

  新疆ウイグル自治区に来ている。中国を縦に三等分し、その一番西側を上下に分けたら上側がウイグル下側がチベットである。中国は多数の少数民族自治区を包括しているが、その中でもウイグルは土地面積が最も広く、タクラマカン砂漠タリム盆地を内に抱え、外は四方を山脈で囲まれた中央アジア大自然の中に位置する。民族はウイグル族を中心に47民族が暮らしている。ウイグル地区の西側はカザフスタンキルギススタン、タジキスタンなど8カ国と接しており、西側に寄るに連れて東アジアから中央アジアへと魅惑のコントラストを成していく。人は皆、彫りの深い目鼻立ちに色素の薄い髪や目をし、言葉はと言えば、中国語を流暢に話す人は移住した漢族を除けば少なく、ウイグル文字を使った民族語が主流である。平たく言えば、“中国人が多い中央アジア”ということになる。

  午後8時、大地をカラカラに乾かす勢いで照っていた太陽がようやく傾き、夕暮れ。ウイグル地区西端の街カシュガルは夕暮れ時が美しい。旧市街の土壁がオレンジに染まっている。日中ジリジリと焼かれ続け火照った街ごとが日陰に入り、涼しい風が吹き抜ける。忍耐強く待った甲斐があったと言わんばかりに子供も大人も外に出て、街が夜に沈むまでのいっとき、夕涼みを楽しむ。砂漠にオアシスのようなひと時である。哀しいかな、政治の事情で今は礼拝に使われていないモスクの前が大きな広場になっている。子供達が走り回り、カフェやアイスクリームの屋台が賑わう。大人は段差に腰を下ろしどこかホッとした様子でそれらを眺めている。広場のすぐ側の簡素なユースホステルに泊まっているが、下が食堂になっていて、朝から夜半まで表で串刺しの羊肉を焼いている。熱さにやられている時はトマト風味のシンプルなスープメンが良いが、煙に乗って充満する脂の焦げる匂いがあまりに強烈で、ケバブを注文せずに店を出ることはもはや困難である。食堂は地元の客でいっぱいである。メニューは無く、細切れにした肉と野菜を炒めたものをタレごと白米かメンにかけたもの、ナン、串焼肉だけ。家族経営の食堂である。大きな陶器釜の内側面に直接生地を張り付けて焼くナンは人々の主食でもおやつでもあり、そこら中で売っている。まるっとガタイの良いおじさんが焼き上がったばかりのナンを熱い釜から器用に鉄棒で刮ぎ取り出していく。薄い塩味でザックリモチっと香ばしく、ゴマとスパイスがほんのり香る。四川料理の唐辛子の刺激からいっとき離れ、素材を活かした中東の味をぞんぶんに楽しむことが今回の旅の目的でもある。

  カシュガルの中心部はモスクと広場を中心に住宅や商店が円形状に広がり、その辺りは車両が入れないようになっている。赤茶色の土壁の家が入り組んだ小道を作り、その街並みをカメラに収めようと多くの観光客が訪れる。年配者は道沿いに椅子を出して、子供達があちらこちらで自由に遊んでいるのを日がな一日眺めたりしている。走り回る子供に付き添いの大人は見当たらず、歩き始めたばかりの乳児から小学低学年ぐらいのウイグル族の子供が数人のグループでカンフーをしたりメンコやボールで遊び走り回る。二歳ほどの子が夜11時を過ぎても大人を離れて道端で遊んでいるさまは異様に思えるが、それほど“安全”なのである。夜半まだベッドにつく気になれず外へ散歩に出ると、4歳の男の子がやってきて、一緒にアイスクリームを食べようと言う。近くに住んでいるのだが、毎晩一人で道端に出て辺りをふらつき、母親が遅いから帰って寝なさいと追いかけるが言うことを聞かず、母親も諦めて好きにさせている。近所の人に聞くとそんな子供ばかりだという。中国の漢族の地域では、一人っ子政策の名残か、祖父母が子供に常に付き添い一家の王子の如く過保護に育てるのが一般的なので対照的である。ちなみに当時の一人っ子政策については、少数民族地区に寄るほど緩和されていたようで、政策中にも兄弟姉妹がいる家庭が多い。チベット自治区においては2人まで出産可能、3人目からは出産納金義務が発生していた。

  中国政府とウイグル少数民族の一連の諍いから街は厳戒態勢であるにもかかわらず、街が”安全”とはどういうわけか。ウイグル地区で何が起きているのか。

  2009年、ウイグル地区で大きな暴動があった。独自文化の尊重を強く求めたウイグル人民と警察が衝突して騒乱になり、少なくとも数百人が亡くなり数千人が負傷した。中央政府ウイグル区間の問題は歴史が長い。その昔、モンゴル帝国が大きな勢力を持つ以前、この地区は独立した一つの国家であった。モンゴル帝国からの支配を経てやがて中国に統一される。しかし言葉や文化が180度異なる異民族を統治することは難しく、皇帝は多数の妻子の中から娘たちを各地区へ嫁にやり、また各地区の有力指導者の家族から中央へ嫁を娶り、他民族との血族関係を結び友好関係を築いた。カシュガルにある香妃墓には清の時代に北京へ入宮したウイグル族の香妃が埋葬されている。皇帝は多数の王妃の中でも香妃を寵愛し、宮廷内に彼女専用のモスクを建て、遥か遠くの彼女の故郷から食べ物を運ばせ、香妃が亡くなった後は遺体を三年かけて北京からカシュガルの家族の元へ運んだという。香妃の方からも、皇帝からの恩恵に感謝を述べ来世も貴方に嫁ぎます、という公式文書を残しており、時代を越えて中央とウイグルの友好関係を築く象徴として語られる。文化は長い時間をかけて少しづつ融合されてゆく。しかしまた、争いが絶えないどこの地域でもそうだが、中央に寄り添うもの、反するもの、二つに別れた枝は更に伸びて分け枝を作り、つまり反対勢力の内部でも信仰の枝別れから争いになり、時を超えてさらに複雑な縮図になる。ウイグル地区も例外ではない。この地区の問題を単純に中央政府の弾圧と考えるのは安易だ。しかし、現在街が厳戒体制である主な理由はやはり直近のテロが理由のようだ。ウルムチカシュガルを訪れたが、街のあらゆる場所に無数のカメラが設置され、警官が立ち、チェーン店のカフェに入る際も金属探知機のゲートをくぐり荷物を赤外線でチェックされる。夜市は禁止され、モスクは信仰のシンボルを取り外して祈祷に訪れる人は無く、地図のメモを手に道を探していると警察に呼び止められ、メモの内容をチェックされる。車で移動すると、他都市への入り口付近で厳しい身分検査があり、スマホの内容まで提示を求められる。中央アジアイスラム的情緒風情を感じるものは制御され、代わりに民族共存を歌う当局の赤い旗に書かれたスローガンが数メートル置きに掲げられている。建物はどれも現代風に新しく修理され続け、道に座り物乞いをする人もいない。民族弾圧という印象を受けるか、民をテロや暴動から守るための保安と取るかはそれぞれである。とにかくウイグルは現在国内で一番安全な地区であるようだ。スリや恫喝、犯罪の匂いもしない。街中に設置された防犯カメラと警察官のおかげである。意外な事に、彼ら警察官の90パーセントは目鼻立ちからしウイグル人である。人は信念だけでは食べていけない。生活するには仕事が必要だ。立場と報酬を与えられ、あるいは優遇され、同胞を規制する立場に就く。就職の機会や選択肢が少ない地方ではなおのことだ。魚心あれば水心、巧妙で有効なシステムである。

  文化大革命の後、多くの漢族の当局員が当時何もかもが未開発であった少数民族地区に派遣された。大規模な人事移動で、公共事業の整備を皮切りに街づくりや政府機関の設置が目的である。ところが当時の中国である。交通手段も無く徒歩で何百キロも歩き、電気も通らぬ秘境へ派遣された漢族はほぼ永住が前提であり、現代の日本のように数年で本店に戻り昇進というわけではない。ちょうど私の親の世代に当たるが、移住した多数の漢族が地民族と家庭を築いた。“文化融合”。それも中央政府の目的の一つであっただろうが、ここウイグルではチベットほど浸透しなかったのかもしれない。依然、漢族とウイグル族の間には文化差異や言葉の壁が存在する。イスラム教圏の人々は男女の異性交遊に関して閉鎖的な地域が多い。ウイグル族も昔は結婚後ですら男女の住居は別で、食事も家族の男性達と女性達で別にとっていたという。言葉も重要であるが、チベット語より中国語を話す人が多いチベット地区に比べ、ウイグルでは積極的な中国語教育は進まぬままである。現在の政策として、漢族とウイグル族の他民族同士の結婚は優遇され6万元(100万日本円)の補助金が支給される法律があるが、そのケースは依然多くないようだ。

  若者の文化はどうだろうか。カシュガルは西の端とはいえ比較的大きな都市である。大学もある。中国は投票権がないので、国政と若者(1990年以降の新世代)の思考は全く別物だと考えるのが正しいが、ウイグル地区ではどうだろう。カシュガルの街を数日間歩いたが、その世代にあたる若者をほとんど見かけなかった。また、街中に配備された警官は学校を卒業したてのまだ幼い顔立ちのウイグル族男女が多かった。察するに、政府関係の仕事に就くか、それ以外は選択肢が多い首都のウルムチに移ってしまうのだろう。というのも頷ける。首都のウルムチを除く地方都市には若者を惹きつける文化が皆無なのである。映画館やショッピングモールがあるわけでもなく、現代的なカフェやバーにレストランも無い。もちろん歓楽街も無い。あるのは観光客相手のバザールと、宗教的意味を失った街、大自然のみである。かつては老若男女多くの人で賑わっていたであろう夜市もバザールも節祭も、多くの人が集まる活動は保安の為に全て規制されている。これでは若者は希望を持てない。アイデンティティを失った街と言われても仕方がない。

  自転車をレンタルし、カシュガルの中心部から他都市へ続く国道沿いに点在する農村部を訪れる。シルクロードと呼ばれる314号線を200キロほど車で走ればパミール高原に入る。乾いた大地が続く中、道沿いにポプラの木が永遠と遠くまで並ぶ。風が吹くと縦に高く伸びた幹が揺れ、葉がザワザワシャララと独特な音を鳴らす。強い太陽を全身に浴びながら、イチニ、イチニと自転車のペダルを漕ぐ。顔に当たる風はカラリと乾いて少しの湿りもない。ロバが荷車を引いている。子供が木からこぼれ落ちた果実を拾っている。穏やかな午後である。数時間後には陽が落ち、暑さから逃れ安堵した人々が湧くように路上に出てくる。遥か昔より東から西西から東へと人が歩いて旅をした交易路。山脈を越え砂漠を渡り遠くの街へ物を運んだ。街は疲労した人や動物のオアシスであった。何千年も変わらぬ風景、何百年も変わらぬ人々、政治状況のみが目まぐるしく変化してきた。陽が落ちるころ、街の中心部に戻り、下の食堂で夕飯をとる。家常飯と呼ばれる炒めものをご飯にかけたのを注文し、“米は少なめで野菜をたくさん“とリクエストすると、笑顔で了解。と返してくれる。いつも通りケバブを二本。通りに出ると人が多くなり始めている。子供、お母さん、老人、おじさん、それぞれの自由で安堵な一日の後半が始まる。漢族の若者が経営する小さなカフェやバーが数件並ぶ通りまで散歩に出る。店を覗くと客は居ないが常連らしいウイグル人の子供が遊びに来ている。目が合うと前歯が抜けた大きな口を開けて笑った。ふと、ここが安全な場所であることを痛いほど嬉しく思った。

  旅中、香港で大規模なデモが行われている最中で、参加者と警察が衝突し、政府側がついに政策を曲げたというニュースを読んだ。もちろん外国のニュースである。事態は世界中でトップニュースになっているにもかかわらず、国内では一切の報道が無い。どころか、誰も知らない。ネットの話題にすら上っていないのはいささか異常である。デモ参加者は学生を含む若者層が主だという。斡旋、暴動の罪で捕まったデモ参加者はどうなるのだろう。2009年のウイグル暴動ではデモと暴動を計画したとされる組織の者が多数逮捕された。刑務所に服役していた私の知人によると、例の暴動で逮捕されたウイグルの囚人は見るも無残な処置に置かれていたという。“学習班”という言葉がある。学校を出てから無職でいるウイグル人の若者を任意で特定の場所に集め、国家団結、法律遵守など基礎道徳を学習するのだという。ただの噂話である。現在100万人のウイグル人が学習中だというのも都市伝説であろうし、事実を知る術はない。旅中、ウイグル人のドライバーに気になっていたことを訪ねた。はて、ラマダンはするのだろうか。イスラム教徒にとっては約一カ月を断食と祈りに捧げる重要な慣習であり、また家族が集まるイベントでもある。ラマダンはしないという。なぜかと尋ねると、“不好説.”とだけ口にしてやんわりと却下された。口々に意見を飛ばしているのは外側にいる者だけで、内側にいる者にとってはこれらのことは全て“不好説”なのである。

  自分が湿度の高い日本で育ったからだろうか。風がぴゅうと吹くような乾燥した場所が好きである。遊牧民の生活をいつかは体験するのが夢である。人もどこかカラリと男性的で惹かれる。人々は感情の渦も人生への情熱も胸の内にしまい、どこか冷めた表情をして、だが誇り高い。太陽に照らされるままに、風に吹かれるままに生きている。ザワザワシャララと鳴るポプラの音が耳に蘇る。